>教育>>正文

文学作品汉日对译阅读素材(1):惊人诗作(中日双语)

原标题:文学作品汉日对译阅读素材(1):惊人诗作(中日双语)

原作:赵平 日文翻译:浦田千晶

小学4年级,天打五雷轰的某一天,登上一座叫做“沙山”的小山,在山洞里躲雨的我,突然在电闪雷鸣中感应到了自己拥有成为诗人的那种天赋。

为了证实这一点,我立即开始写诗。有几首“诗”收入外研社出版的作品集《日语文学作品听读与赏析》中。它们之所以能堂而皇之地登上大雅之堂,还是托“洋虫”这篇作品的情节需要的福。摘几段聊博一粲:

……

米虫抱米粒

摔向含羞草

草儿合上叶

米虫没处跑

……

触须满载简短的语言

触碰转达遥远的思念

……

洋虫吃掉桔梗花

我挨板子噼里啪

……

老师敲教鞭教歌

洋虫撅屁股弹弦

……

黑云压楼楼欲摧

虫失吾家何处归

……

获取多大相逢喜悦

感受多深别离伤痛

天平放置两份情感

何人能识孰轻孰重

……

八鸽崖风载来沉甸甸的秋色

化作佳酿灌入桔梗草的花盅

花盅不堪承受冬日前的馈赠

一声叹息凋落在荒瘠的土中

……

友谊难敌健秋

乌油油的长发

情牵德松之心

寻衅跟我打架

……

死的悲哀孵化出生的欢喜

如脱离母体的水汽

……

再黏贴下去,自己都得吐了。先打住,回到主题。

后来我写诗的才能得到进一步的发挥,少年到青年时代,陆陆续续写了不少倒牙的玩意儿,其中有几首被好友拿去投稿,居然登入贵州文联杂志《山花》的殿堂。不过我的诗歌之旅也随之渐行渐止。因为我发现“天赋”灵光闪现得越来越艰涩。很多时候,跟便秘颇为神似,不得不借助辞藻当开塞露,而辞藻开塞的“诗歌”,断难遥拜“面向大海,春暖花开”等平铺直述的后尘。

说白了,靠辞藻去骗眼球的写作,委实憋屈。

认清自己的平庸,也算成长的一大步。从此,我便跟“文学”绝缘,转而训练自己成为一名货真价实的外语工匠。才疏学浅、笨嘴拙舌的我,从英语开始,尝试了法语、德语、世界语,最后无可奈何花落去,零落到日语的某个角落里。再次染手“文学”,是而立之年到日本留学时的事儿了。重操旧业,并非来自对自己“天赋”重新发现重新认识,仅为机缘偶遇。功利的没有,苦涩的多多。随性涂鸦,一来二去,留下了些许文字,大多为日语,读者基本上是日本人,外加数名对日语感兴趣同时对俺感兴趣的同胞。

只是我写的多为散文或小说,不敢沾惹诗歌。

我始终认为,诗歌这玩意儿,绝对需要天赋。或许,正因为天赋如珍珠天成,万里挑一,便免不了滥竽充数,鱼目混杂。鱼目之所以能混珠,只怨普罗大众不少有眼无珠。内行看门道,外行看热闹;内行寥落数英,外行比肩继踵。喧嚣之所以能尘上,多拜普罗鼓噪。

这些年看了不少鱼目混珠的诗歌,写作手法跟我少年时代悟出的道道如出一辙。虽说写鱼目诗歌如缺牙巴啃西瓜,道道多,但有个屡试不爽的终极道道,那就是:倘无天分扶持,就以辞藻炫目。拼死拼活,总能打拼出“语不惊人死不休”的喧嚣效果。就辞藻渲染效果的机巧而论,俺可自诩为登堂入室的“内行”之一。故辞藻诗歌,多半瞒不住俺的法眼。只不过通常不去较真,一眼扫过,发出噗嗤一声冷笑之后,便忘之脑后,继续修改研究生们的学位论文。

几天前,一位好友写了一篇游记让我修改。由于游记涉及到诗歌,没来由地勾引起了我的兴致,就死缠烂打地与这位朋友谈起了诗歌的写作,也顺带提及“语不惊人死不休”的博眼球秘笈。这秘笈说起来也简单,掌握熟练了,阿猫阿狗都可以荣升半个鱼目诗人。东西南北、读者诸君、吃瓜群众,务记于心:明眼自知,其中致命暗器,就是尽可能把“不搭”的词句凑在一起。譬如“漆黑”跟“灯光”或“烟火”搭配、“放飞”与“眼球”或“理想”搭配。“柔如海绵的纤纤秀手”,必然去抚摸“坚如钻石的钢铁之心”;“深宫里欲情飘升的乌发”,免不得挑逗“悬崖上冷漠坠落的太阳”。诸如此类,不一而同。当然,要做到恰到好处,还得经过时光的训练方能大彻大悟。对于初学者来说,最需留神的就是:别一个不小心,露出“硬凑”马脚。

我少年时代曾写过这样的词句:

……

苍穹

俯瞰大地

不经意间

窥探到

晶莹剔透的

子宫里

游荡着的

那尾

明晃晃的

深海钢针鱼

……

读过这首“诗”的人大多叫好不绝,迄今没人看出它其实是为了吸引眼球的生搬硬套。试想:“子宫”哪儿有“晶莹剔透”的?里面怎么会钻进去一条游荡的鱼儿?鱼儿又如何“明晃晃”来着?固然,鱼儿在阳光的照耀下,可能反射出“明晃晃”的光芒,但我之所以用“明晃晃”三个字,跟阳光八竿子打不着,纯粹是从“晶莹剔透”顺过来的联想。如果是今天,我甚至会用“熠熠生辉”四个字来拽文。至于为什么用“子宫”而不用别的器官,要让弗洛伊德来分析的话,估计就得跟青春期性意识挂钩了。由此看来,俺从小就不像个省油的灯,潜意识下沉淀的,没准全是花里胡哨的垃圾邪念!

不过,看官稍微仔细一点,就能发现歪诗的马脚。君不见,“钢针鱼”是湖塘里的鱼儿,山城贵阳的超市都有得卖,做酸汤鱼味道绝佳,不可能有机会迁徙到深海去。可见,哪怕生拉硬套,混珠好鱼目也该套得不留破绽。今天的我,将其修改如下:

……

苍穹

俯瞰大地

不经意间

窥探到

晶莹剔透的

脑海里

游荡着的

那尾

熠熠生辉的

深海鮟鱇鱼(或者:湖塘钢针鱼)

……

怎么样?意境似乎不错,也还朗朗上口,可供芸芸众生公说公有理婆说婆有理吧。但究其根本,不外乎玩弄词藻的胡说八道。为了证明这种胡说八道有多容易粗制滥造假情真造有泪沙迷眼无泪抹辣椒,而且,有多容易迷惑普罗大众,我在与好友的歪诗邪调的谈论中大言不惭豪言壮语:这水平的玩意儿,虽比不上唐伯虎点秋香的速度,一天也能闭着眼睛捏着鼻子胡诌个百十来首,不信,我一分钟诌一首给你看看?

我实际上用了两分多钟才把“诗歌”写出来发过去。诗曰:

……

山峦

用裸露的肌肉

编织成

皮鞭

抽在

大地的脊梁骨上

啪啪声如闪电

撕裂了

匆匆行路人的

寂寞胸膛

栗色惊炸

如少女的眸子

射穿

亿万年的顽石

就看那一束彩云的

腰带

蜿蜒曲折,纠缠在

脑桥

奇形怪状的神经束上

……

我心坦荡!

……

本来想写“蓝色惊炸”的,打字快了,成了“栗色惊炸”。也懒得改,就这么送了过去。

接下来,恶作剧的恶魔从心灵壶嘴冉冉升起,怂恿我把这首“诗”发到了微信群中征询大众读后感。虽没敢说是自己写的,然而还是不出所料地得到了不少“好诗歌”的赞叹。有人评价“诗人的心绪和常人不一样,如果正常了,就写不出好诗啦”;有人拥赞“文字精美,口舌生香”。甚至有位老师痛心疾首地感叹道:“好多年没看见这样的好诗篇了!”最可喜的是我的一位著名博导文人老友,他斩钉截铁入木三分:“特意要造成的新效果,也是一种尝试,好玩,可见语言表达的极限。”

我的个去!

随着一声感叹,我不禁心旌摇摇,开始幻想:等我退下来没有工作了,就重操旧业,当个语不惊人死不休的诗歌工作者吧。

……

没准,

能诌出一本

可买点儿

阿堵

填补

羞涩阮囊的

诗歌集。

果如此,

俺就大发

了!

……

至于众生……管他那么多!他们的钱夹子够厚的,掏出几文买点儿诗歌读出自己期待的良好感觉,陶然醉乎欣然逝乎,无可不可,不必我等为之上心也。

……这么算计,是不是有点儿歹毒哇?善良如我者,也还是免不了几分担心的……

目をむく詩作

浦田千晶翻訳

小学4年生の時、天の神がそこかしこに雷を飛び散らせたとある一日、「砂山」という小さな山に登った折に、洞窟で雨宿りをしていた私は突然、自分が詩人になるべき才能に恵まれている、という事実が雷鳴のように頭の中できらめくのを感じた。

この証明のため、私は詩作を始めた。いくつかの詩は外研社出版の『日語文学作品聴読与賞析』中に収められている。これらが太極殿に鎮座され申してあるは、作品「洋虫」のストリーの運びのお陰もある。煌(きら)めきの一部をご紹介する。

……

米粒抱いた コクゾウムシ

落ちたには オジギソウ

ゆっくり葉っぱを わせられ

をなくして 往生

……

ひげに短い言葉を

か遠くの思いをえる

……

虫は桔梗のをたしなみ

僕はピシッとらう

……

先生は を振り振り 歌教え

洋虫は 尻を振り振り 弦弾

……

風雲し れんばかりである

虫はい どこへ帰るやら

……

めぐり会いのびは大きく

離別の悲しみもまた大きい

二つの思いを天秤にかけても

どちらがいか誰が知れよう

……

八鴿崖のは 重々しい秋を

銘酒となりて 桔梗の花杯へ注ぐ

冬直前り物に 花杯はたまらず

痩せた荒れ地に ためんで落ちる

……

めがたし 健秋よ

そのつやつや光る髪が

徳松の心をしばりつけて

僕を挑発喧嘩させる

……

生きることとは 不幸も に隣り合わせ

めぐり逢う喜び その孕むものは 離別のしみ

……

さらに続けると自分でも気分が悪くなってきそうなので、このあたりにしておいて本題に戻る。

のちに、詩作の才能がさらに亢進したのは少年から青年時代で、陸続と歯が浮くような文を書き連ね、そのうち数編は友人により投稿され、貴州の文学雑誌『山花』の殿堂入りを果たしている。しかし、私の詩歌の道はだんだん沙汰やみになってきた。なぜなら、自身の「閃き」はだんだん褪色してくるのを感じたからだ。多くの時において、ガンコな便秘よろしく「詞藻」を浣腸にし、その力を借りた「詩歌」でもって「大海に面し、春の暖かさは花をほころばせる」(中国の有名な詩人、海子の名高い一句)などの後塵を拝すようになっていた。

正直に言えば、詞藻を以て眼球を騙す作文は耐え難いものがある。

己の至らざるを知るは、成長の大きな一歩である。これゆえ、私は文学と絶縁致し、自らを鍛え真価のある外国語の匠を目指した。浅学菲才にして、うまく動かぬ舌を以て私は英語をはじめとして、フランス語、ドイツ語、エスペラント語、最後には花の散るらむ、花は流れて日本語の一角に流れついた。再度「文学」に手を染めたのは而立の年、日本留学の時の事だった。昔取ったなんとやら、自分の天稟に対し新発見をしたのではなく、むしろ神の悪戯か偶然の至りか、というレベルのものだった。功利はなく、特盛苦労のみ多々あり。気ままな落書き、書いて消して、いくつかの文字を残した。大部分は日本語で、読者は基本的に日本人、ほか数名の日本語に興味のある、またおいらに興味のある同胞であった。

私が書いたのは散文及び小説で、詩歌には近寄らなかった。

私は始終、詩歌というものは、絶対に天稟がなければ、と思っていた。

あるいは、天稟が真珠が自然にできるように、万数より一を選ぶ際に、門前の小僧習わぬ経を読む、とばかりに玉石混交となるのは止むを得ない。石が玉の皮をかぶり、なりすまし得るのは、全体、大衆は大体目が節穴だからだ。専門家は中を覗いて見、門外漢は賑やかしを楽しむ。専門家は希少数えるばかりで、門外漢は立錐の余地なく肩をこすりかかとを継ぐ。喧騒ありて故に埃が舞い上がる。世間のシャバの人々どんちゃん騒ぎ。

これらの年に少なくない玉石混交の詩歌を見た。手法は私の少年時代に大悟した轍を踏んでいた。玉石詩文は歯欠けがスイカを囓るのに似て、裏道逃げ道獣道(問題解決には色々な方法がある、の意味)。しかし獣道にてそれは、天稟を備え得ずただ目をくらませるのみ。その中における究極のごまかしは、「人を感動させるためにむやみやたらに美辞麗句で飾り立てていばる・へばる・くたばる・生き返る」(訳者注 元の意味は偉大な詩人になるために厳粛かつ真摯な態度で創作に臨むこと。本文では内容なき上滑りな修辞に頼る者を皮肉っている)というという手法である。詞藻でお茶を濁す機微の論にて、おいらは進軍ラッパを吹いて「専門家」の隊伍に加わった。故に、詞藻詩歌はおいらの法眼を逃れえない。ただ、平生はわざわざホンマかいな、そうかいな、と比べぬだけで、ちょいと目を通して、へん、と冷笑一声、さらりからりと忘却の彼方へ、続けて院生の学位論文へ朱を入れる。

数日前、ある仲の良い友人が書いた紀行文の添削を依頼してきた。内容が紀行文から詩歌に及んだため、いつになく訳もなく私の興味を引き、まとわりついてからみついてくる友人との詩歌書き方談論風発が勃然と沸き起こり、行きがかり上件の「美辞麗句、へばる、生き返る」秘訣にと話は飛んだ。この秘訣とは、簡単に言えば慣れてきたら猫も杓子も犬も杓文字も栄光ある玉石詩人になれる、というものである。とざい東西、読者諸賢、目をむいて、耳をかっぽじって、ついでに蜜柑も剥いてご覧あれ。天も照覧、その必殺武器は、できるだけ対応しない語句を一緒くたにするのだ。たとえば、「漆黒」と「灯光」あるいは「煙火」、「放飛」と「眼球」もしくは「理想」。「海綿のごとくたおやかなる手」とくれば「金剛石のごとき鋼鉄の心」とくるし、「深宮にて心惑わす烏の濡れ羽色」と来た日には「崖の上より寂寥のまま落ちなんとせしお天道様」が天性の一対となるは闇夜に提灯、いや、割れ鍋に綴じ蓋か。このように、不同にして同一。もちろん、ぴたりと嵌まるには良きところもあり、時の流れに磨かれようやっと大悟に至る。初学者諸賢、心せられよ、「小さなうっかり、鉄拐の馬脚をあらわさぬよう」(訳者注 鉄拐李は中国版七福神、八仙の一。修行を積み、幽体離脱ができるようになって、霊魂の抜けた死体を家人に見張らせて遠出したところ、家人は急用ができて死体を荼毘に付していた。戻ってきてあわてて近所にあった行き倒れの体を借りて復活。故に堂々たる体躯より貧相な体つきとなっている。また、弊衣蓬髪で目をむいている。民間伝承における薬の神。背中の瓢箪に仙薬が入っている。ちなみにほかの八仙と違い現実のモデルがおらず、伝説上の人物)

私が少年時代に書いた詩は以下の通り。

蒼穹(そうきゅう)

大地を俯瞰する

見るともなしに

透き通っている子宮に

寂しく泳いでいる

あの一尾の

きらきらとしている

深海の鋼針魚(キャットフィッシュ)

一瞥した

この「詩」を読んだ多くの人は「すごい」「すごい」と言って引きも切らぬが、これまでに人目を引くために無理をさせたところに気づいた人はいない。というのは、「子宮」のどこに「透き通っている」のだろうか?魚はいかにして「きらきらとしている」と来るか?魚の銀鱗が陽光の下で、日光を跳ね返して「きらきらとしている」となるのだが、私の用意した「きらきらとしている」の文句は陽光と合わず、純粋に「透き通っている」より連想したに過ぎない。もし、今書くのであれば「煌びやかに輝いている」を用いるであろう。なぜ「子宮」を使ってほかの器官を使用しなかったのであろうか、フロイトの分析に拠ると、思春期のリビドーに関係があるらしい。これから見ると、おいらは幼少の砌(みぎり)より省エネタイプではなく、潜在意識の心底にはすべて絢爛豪華満艦飾の晴れやかなるも邪(よこしま)な念が溜まっていたと見える。

また、ようく、細かく見ていると、詩より馬脚が見え隠れしているのが分かる。君見ずや、「鋼針魚」は池塘の魚(淡水魚)に用いる。山国の貴州貴陽のスーパーでも買える。酸湯魚(スワンタンユイ)の味にしてはほっぺたが落っこちそうな一品だが、残念ながらそいつぁ深海に行くすべはない。見えるだろうか、無理した結果、玉石の破綻を免れ得ぬのが。現在の私なら、下のように訂正する。

蒼穹

大地を俯瞰する

見るともなしに

透き通っている脳裏に

寂しく泳いでいる

あの一尾の

煌びやかに輝いている

深海の鮟鱇(あるいは、「池塘の鋼針魚」)を

一瞥した

いかが?見たところ佳作のようで、するすると口に上るが一般大衆の芸術談義は甲論乙駁であろう。根本的に、詞藻の遊びによる片言隻語おざなりなおざりになりにけり。この当たるを幸い口八丁手八丁豆腐一丁出前一丁八丁味噌の粗製乱造は、いかにしてチョロいと多くの善良無過失の一般ピイプル達を迷わせ惑わせられるのか、私は良き友との談論風発丁々発止、大言壮語の後始末として、このレベルの言葉遊びであれば、唐伯虎点秋香ではないが一日にて百数十でもちょちょいのちょい、ちちんぷいぷいでこさえられると嘯いた。おや、眉唾ですかな?信じられぬとあればお目にかけて御覧に入れる。

下は私が呻吟の末、二分間でひねり出し熨斗を付けて送り出したる「詩歌」也。詩経に曰く、もとい、詩に曰く、

山巒(さんらん)

裸にした筋肉で

鞭編織し

大地の脊梁骨を打つ

パチパチの音が稲妻のように

匆々と道行く人の

寂寞たる胸を

引き裂く

驚いた栗色の炸裂が

少女の瞳の如き

億万年の頑なな石を

射すくめる

見ろよ、あの一筋の彩雲の

ベルトが

くねくねと曲がり

脳梁の

奇々怪々な神経の束に

纏わり付いてくる

……

それでも平然を保っている

我が心よ

本来、「驚いた藍色の炸裂」と書こうと思ったところ、タイピングが早すぎて「驚いた栗色の炸裂」とやってしまい、ええい、打ち直すも面倒だ、とそのまま送る始末。

引き続き、心の奥底より子鬼の囁きが勃然と黒雲のようにもくもくと湧き上がり、この「詩」を微信(中国版グループチャットアプリ。ウィーチャット。現金の支払いも可能)のグループチャットに乗せて皆々様の読後感を募ることとした。さすがに自作とは言い出せなかったが、意外なことに「いい詩だ」と讃嘆の栄に浴した。とある人評して曰く、「詩人の心は一般人とは違う。もし正常であればこのような詩は書けぬか」、またとある人のたまわく、「文字の精妙なること、口中微涼を生ずるがごとし」、ある先生に至りては驚天動地、石破天驚とばかりに「ここ数年来、かくも素晴らしい詩にはお目にかかったことがない!」最も喜んでくれたのは著名な博士課程指導教官で文人の誉れを持った我が旧友、彼の鋭い分析は鉄を切り鉄を断ち、重箱の隅から空を覗くかのよう。「特に新効果を生み出した、一つの実験であるが、妙味。言語表現の極致」

おーマイゴー!

感嘆一声、私は心動くを禁じえず、意識は天高く飛び立った。

退職して仕事がなくなれば、昔取ったナントヤラ、エンヤコラサ、「美辞麗句・くたばる・生き返る」の詩作でも、やってみようか?

ひねりだせ

がんばり出すぞ

一冊の

本が売れれば

すかんぴん

手元不如意も

解消だ

売れろよ売れろ

詩歌集

もしも売れれば

おいらは金持ち

皆々様は……ってゆーと、そんなことはどうでもいい!彼らの財布ははち切れんばかり、いくばくか摘まみ出して文化を購い、詩を自己流で読めば、おあつらえ向きの陶然垂涎嫣然茫然となる極楽浄土。永眠には少し早いぞ。可もなく不可もなしだ、私が事をなさんと思えらくは。

……こんな考え、少し意地悪すぎはしますまいか。すこぶる付きの善人である私はいささか良心の呵責を感じる今日この頃……。返回搜狐,查看更多

责任编辑:

声明:该文观点仅代表作者本人,搜狐号系信息发布平台,搜狐仅提供信息存储空间服务。
阅读 ()
投诉
免费获取
今日搜狐热点
今日推荐